「内々神社」の版間の差分

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内々神社とは、春日井市内で最も古い神社のひとつで、平安時代に編纂された「延喜式神名帳」に記載されている。
 
内々神社とは、春日井市内で最も古い神社のひとつで、平安時代に編纂された「延喜式神名帳」に記載されている。
:伝説によると日本武尊が東征の帰路、内津の坂を下るころ、副将軍であった建稲種命が駿河の海で水死の報告を聞き、「現哉(うつつかな)」と泣き悲しんだことから、「内々神社」という名に、また「内津(うつつ)」という地名になったと伝えられている。
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伝説によると日本武尊が東征の帰路、内津の坂を下るころ、副将軍であった建稲種命が駿河の海で水死の報告を聞き、「現哉(うつつかな)」と泣き悲しんだことから、「内々神社」という名に、また「内津(うつつ)」という地名になったと伝えられている。
 
昔から武将の尊崇が厚く、豊臣秀吉の朝鮮役にも戦勝を祈願してこの社頭から軍船用の帆柱を伐り出したという。
 
昔から武将の尊崇が厚く、豊臣秀吉の朝鮮役にも戦勝を祈願してこの社頭から軍船用の帆柱を伐り出したという。
 
また、篠木荘33ヶ村の総鎮守でもあり、神社と密接な関係にある妙見寺は室町時代初期に天台宗密蔵院開山慈妙上人によって開創された。
 
また、篠木荘33ヶ村の総鎮守でもあり、神社と密接な関係にある妙見寺は室町時代初期に天台宗密蔵院開山慈妙上人によって開創された。

2007年8月19日 (日) 22:04時点における版

内々神社とは、春日井市内で最も古い神社のひとつで、平安時代に編纂された「延喜式神名帳」に記載されている。 伝説によると日本武尊が東征の帰路、内津の坂を下るころ、副将軍であった建稲種命が駿河の海で水死の報告を聞き、「現哉(うつつかな)」と泣き悲しんだことから、「内々神社」という名に、また「内津(うつつ)」という地名になったと伝えられている。 昔から武将の尊崇が厚く、豊臣秀吉の朝鮮役にも戦勝を祈願してこの社頭から軍船用の帆柱を伐り出したという。 また、篠木荘33ヶ村の総鎮守でもあり、神社と密接な関係にある妙見寺は室町時代初期に天台宗密蔵院開山慈妙上人によって開創された。 権現造りの社殿は、江戸末期・名工立川一族により造られ、廻遊式林泉型の庭園は、夢窓国師作といわれている。

交通手段

JR中央線高蔵寺駅から名鉄バス内々神社行 内々神社下車


住所

〒480-0301 春日井市内津町

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